子守唄

ねんねんころりよ おころりよ

実家の横のラーメン屋が閉店した

実家の横のラーメン屋が閉店した。実家が実家になるのとちょうど同じころにできた、中国人の一家が営むラーメン屋だった。緊急事態宣言が解除された隙を見計らって細々と食い繋いでいたようだが、ついにコロナ禍には勝てなかったらしい。同じ地域に住む会社の人に報告したときに言われた、「あるものが無くなるのは淋しいね」という言葉がすとんと胸に入ってきた。

 

実家がまだ更地だったころ、何回か土地を見に行くたびに違うラーメン屋の看板が出ていた。テナントが居付かない土地として近所では有名で、だからその一家が来た時もみんな期待はしていなかった。

数年が経ち、どうやらあの店はしばらくやるらしいと悟った近所の住民がこぞって通うようになり、しかしどの家庭のお母さんにも受けは悪かったらしい。次第に友達は行くのを辞めた。萎びたおじさんたちが酒を飲みに行く、なんだか怪しいラーメン屋。町内ではそう位置付けられていた。豚骨ラーメンにたわしが入っていた、ゴキブリが机を這っていたなどの話も聞いた。しかしわたしたち家族はそんな噂を物ともせず通い続けた。やけに空いた駐車場の、しかしドアを開ければいつでもそれなりに人は入っていて、わたしもどこかでこの店だけは大丈夫だろうと思っていた。ちなみに確かに実家はゴキブリの(割と)多い家だった。でもなぜかはもう分からない。

母親の仕事が忙しくて晩ごはんが作れない時、いやそうじゃない時も、我々はよく通い詰めた。一族の人なのかたまに従業員が入れ替わり、それに伴ってよく味が変わる台湾ラーメンが大好きだった。異様に辛い日も、極端に味が薄い日も、どの日の台湾ラーメンも残したことはなかった。特筆して美味しいわけではなく、その辺の国道沿いの似たような店でもきっと食べられる台湾ラーメン。でも進学で故郷を離れた時、母親の味より恋しかったのはあの店の台湾ラーメンだった。

 

緊急事態宣言が明けても開店しないから気にかけてはいたけど、なんの前触れもなくある日解体工事のお知らせがポストに入っていたと父から連絡が来た。我が家のグループLINEに激震が走った。わたしも驚きはしたが、まだ実感がなくてきちんと受け止められなかった。

翌日、通勤の車内でラーメン屋のことを考えた。店に行くまでの夜のアスファルト。緑色の取手に手をかけて重たいドアを開け、4人でいつも座る席から見える道路。冷たいけどベタベタはしていないテーブル、なんとなく居心地の悪い座敷。毎回必ず頼んだのはビールとつまみ2種類がついてくるセット。わたしが飲めるようになってからはつまみが揚げ物ばかりにならないようにみんなでああでもないこうでもないと選んだ。やがて運ばれてくる、氷塊の入ったビール。冷たすぎて味なんか分からなくて、父はいつも氷の分だけビールが少ないと怒っていた。毎回お腹いっぱいになるまで食べても4人で5000円を超えたことがなくて、帰りはコンビニに寄って一人ずつアイスを買った。意識して思い出そうとしたことがなかっただけで、こんなにたくさん覚えていた。気がついたら少し泣いていて、嘘だろと思ったけどやっぱり泣いていた。あの店がなくなるのと同時に、家族4人で夜道を歩いたあの時間ももう二度と来ないのだと、その時はっきり分かった。

裏口をいつも掃除していた朴訥なお父さんとは、最後まで話さなかった。明るく元気なお母さんはついに「五目ラーメン」が言えるようにならなかった。いつも隣町の小学校の体操服を着て、お母さんの制止を振り払って客の卓によく遊びに来ていた息子は高校生になり、立派にホールを回していた。家族や親戚や親しい友人のその次くらいに、わたしたちは隣からあの家族の10年を見ていた。あの家族はどこに行くんだろう。日本でもどこか遠い国でもどこででもいいけど、わたしたちがそうしてもらったように、ちゃんと美味しいものを食べられるのだろうか。わたしたちにとって当たり前にあった店のように、この町もまたあの家族にとって当たり前にあったのだった。田舎の割に流動的なこの町で、移り変わり続ける風景の単なる一部にするには10年は長すぎた。

 

最後にあの店に行ったのはいつだったかもう思い出せない。近所すぎて写真もない。とりあえずストリートビューで店に行ってスクショを撮った。どうせすぐに忘れてしまうけど、忘れたくないと思った気持ちだけは残したかった。

後にはアパートが建つらしい。ますますいろんな人々がこの町に来ては去るのだろう。あの限界集落のような町内では、ラーメン屋の店構えだけではなくそんなものがあったことさえも忘れられていくような気がする。あの一家もどこかで逞しく生きていてくれるといい。またどこかであの台湾ラーメンに会えたらもっといい。

もう二度と食べられなくても、それでいい。