子守唄

ねんねんころりよ おころりよ

誰かへ

 

毎年黙祷の時間が近づくとソワソワする。1年前に戻れたら、大声で叫びながら海岸を駆け回って一人でも救えたかもしれない。2年前に戻れたら、抵抗する人の手をそれでも引っ張って無理やりにでも高いところへ連れて行けたかもしれない。3年前に戻れたら、4年前に戻れたら、毎年黙祷の前になると考えるのを止められなかった。5年前に戻れたら、6年前に戻れたら、稚拙な妄想の域を出ないのにそれでもこの考えが頭から離れなくて、気がつけば今年で10を数えてしまった。今の職場で迎える初めてのその時はどうやら来ないらしいと悟って、トイレに駆け込んだ。ツイッターを開いて式典の中継を最小音量で流して、一人ぼっちで祈った。

 

何度目かの被災地の教育支援のボランティアの時だった。震災から3、4年後だったと思う。毎年とある団体として東北に足を運んでいたが、その年は子どもたちを自分の県に呼んでもてなす会を催した。毎年のように楽しく交流をする予定だったが、会の冒頭にあるスライドショーが流れた。近隣のいくつかの大学の被災地支援サークルの人たちからのビデオメッセージだった。

「2011年3月11日、東日本大地震。」というナレーションを皮切りに、大学生が次々と思いを語る。「あの震災が全てを変えてしまいました。何年経とうとも、あの日のことは鮮明に覚えています」「わたしたちはいつもそばにいます。忘れないで」「忘れないよ。一緒に頑張ろう」「応援しています!忘れないで」忘れないよ、忘れないで、忘れないからね…

会場の後方に突っ立っていたので、スクリーンを見る子どもたちの顔は見られなかった。その後も子どもたちとはそれについて話をしなかったので、本当はどう思っていたか分からない。わたしには心情を想像して語る資格もない。もしかしたらあの場の全員があのビデオメッセージに元気をもらえたかもしれない。それでも、掘り起こしているとしか思えなかった。全く関係のないわたしが、叫び出したい思いだった。辛かったことは、忘れてしまってはいけませんか。ずっとずっと、忘れてしまってはいけませんか。

 

忘却は防衛反応である。意図して何かを忘れることは人間にはできない。生きていて、他のことに手一杯で、少しずつ思い出さない時間が増えて、そうしてゆっくり色々なことを忘れていく。ようやく忘れることができる。

 

第2回目のボランティアで知り合った子としばらく文通をしていた。筆不精であまり返事を返せなかったのに、その子は律儀に手紙を書いてくれた。大学に入って住所が変わっても。だんだん書ける漢字が増えて、中学で入りたい部活の話などをしてくれるようになった。最初に会ったときはたしか小学2年生だった。ずいぶん大きくなったなぁと感慨に浸り、そして不安になった。震災ボランティアで知り合ったわたしから手紙が届く限り、この子から「自分は被災地の子である」という思いは消えないのではないか。新しい、やっと進み始めた日常の中で知り合った人と、もっと仲良くなるべきではないか。そう思ってしまうともう返事は書けなかった。震災から5年が経っていた。


忘れることは悪いことなのだろうか。辛かった記憶に蓋をして新しい道へ進むのは、責められるべきことなのだろうか。その地にいたから、経験してしまったから、ずっと考え続けなければいけないのだろうか。毎年確かに思い出さなければならないものなのだろうか。

「被災者」が被災の記憶を忘れることを、被災しなかった我々は許さなければいけないのではないだろうか。せっかく知り合った子とできればずっと仲良くしたかった。でもそれはたぶん違う。昔近所に住んでいた人や学校の担任の先生や引っ越した友達や、そういう人たちと同じように軽やかに忘れられるべきだった。もう忘れてもいいよと返事を出す勇気がなかった。

 

この文章で誰かが傷つくことをわたしは望まない。高尚な問題提起などではない。非被災者の戯言だと思っていただいて構わない。それでももし、もしあの日、あのスクリーンを見ながら本当の気持ちを口に出せなかったかつての子どもがもしいたなら。否応なしに考えさせられる今日という日に、心の安寧を保つためのほんの一助となることができたなら、これ以上の幸せはない。