子守唄

ねんねんころりよ おころりよ

2021.11.01

未来の自分によく手紙を書いていた。何かの節目の日じゃなくて、ふと思いついた時にその辺の紙に書いて、机の引き出しにしまっておく。すっかり忘れて半年後くらいにたまたま見つけて嬉しい気持ちになる。案外何を書いたか忘れているもので、手紙より日記に近いとりとめもない文章だけどそれでも面白かった。半年程度じゃ環境は何も変わっていないけど、でも今の自分はその頃より確実に歳を取っているのだとぼんやり実感する。そしてその便箋をそっとしまってまた引き出しに戻す。

そういうことを中高生の時によくやっていた。やっていることは今もそんなに変わらない。


自分のことを物を書かないと生きていけない側の人間だと思っていたけど、そんなことはなかった。ただ少し満たされないだけだった。心の中のものを出しているのに満たされるのもおかしい話だと思うけど。


ここではいけない正当な理由をずっと探していたけどそんなものはなくて、なんとなく嫌なのだった。そんな理由で人生の決断はできないと思っていたけど、大学を辞めた時もつまるところ理由はそれだった。ここでは嫌だ。その気持ちだけで決めてもいいんじゃないかと不意に思った。最近自分のことが分かってきて、不意に納得できるタイミングまで待ち続けるのが一番良い。納得しないと進めない。


後悔しても、後悔するだけだ。ある日いきなりそう思った。後悔はするけどそれ以上ではないことがとてもスムーズに腑に落ちた。


自分の、どこにも行けない文章が嫌いだった。どこにも行けない時期にばっかり書いていたからそういう癖がついたんだと思っていた。いつも同じような鬱々とした文体で、自分の心の中を覗いては落胆することしかしてこなかった。文章の中ならどこへでも行けるから、どこへでも行ったらよかったのに。でもたぶんわたしは自分がどこかに行ってしまわないようにと思って書いていたんだった。


たくさんの自分がいて、総数の8割くらいは泣いている。昔あった嫌なことや後悔していることややりたかったけどできなかったことを考えてずっと泣いている。そう恋人に言ったら「泣いてるきみを一人ひとり順番に笑わせてあげようね」と言われて、一番大きいわたしも泣いた。生きる意味と呼ばれるものの輪郭が少しだけ分かった気がした。


毎日同じ場所に行って同じ場所に帰ってきて、それでも絶対に昨日と同じ自分ではない。心は絶えず旅をしていて、全く違う景色を見続けている。何年も前から同じところにいて自分のことをずっと見つめている。どちらも自分の心だった。

 

ネットにはおびただしい数の文章が絶え間なく流れていて、その濁流に呑まれてそんなことも忘れていた。わたしはわたしのためだけに書いていたんだった。


書きたくなったら書く。それは明日でも5年後でも変わらない。最初からそのはずだった。


誕生日の前の数日は心が静かになる。少し前までは今年こそ日付が変わった瞬間に空が明るくなって紙吹雪が舞い散る中を天使がファンファーレを吹きながら降りてくると思っていた。そうじゃなくても、今年こそは大好きな誰かがプレゼントとケーキを抱えて玄関のチャイムを鳴らして立っていてくれると本気で思っていた。そんなことは一回もなかったのに。


前の誕生日の時には想像もしていなかったことがたくさん起きた。一人暮らしを始めた。給料が少し上がった。恋人との仲がさらに良くなった。その前の誕生日は、あの街を出るなんて、仕事に就けるなんて思っていなかった。


なんだ、どこにも行けないと言いながらここまで来たんだ。


よく泣く女なので、この一年もたくさん泣いた。一人でも恋人の前でも職場のトイレでも泣いて、それでもここまで来たんだった。前を向いていないと足が止まってしまうからあまり振り返らなかったここ数年のこと。嬉しいことより辛いことの方が多かった気がするこれまでの人生のこと。何も続かない性格だけど、落としたものも多いけど、自分が心底嫌になってだいぶ経つけど、でもやっぱりわたしは自分と歩いてきた。


何とか今年も生き延びた。毎年誕生日にそう思うようになってしまった。


来年の誕生日にはまた今の自分が想像もつかないところにいるんだろう。心でも身体でもどっちでもいい。わたしはまた自分を連れて足踏みにしか見えない歩みで進むんだろう。それでも振り返れば、こんなに歩いて来たんだから。


こんな激動の一年はもう来ないと数年思っている。生きているだけで激動なのかもしれない。そんなことに今更思い当たる。どこにも行かなくても激動は日々わたしの中で起きている。


何とか今年も生き延びた。


やっぱり今年もファンファーレは鳴らなかったから、自分のためにこれを書いた。あの机はもうないからインターネットに浮かべておく。自分のためのブイになる。もう前のわたしではないけど、いつでも戻ってこられるように。


誕生日おめでとう。来年も生き延びたわたしにまた会えるのを、わたしは毎日楽しみにしている。

実家の横のラーメン屋が閉店した

実家の横のラーメン屋が閉店した。実家が実家になるのとちょうど同じころにできた、中国人の一家が営むラーメン屋だった。緊急事態宣言が解除された隙を見計らって細々と食い繋いでいたようだが、ついにコロナ禍には勝てなかったらしい。同じ地域に住む会社の人に報告したときに言われた、「あるものが無くなるのは淋しいね」という言葉がすとんと胸に入ってきた。

 

実家がまだ更地だったころ、何回か土地を見に行くたびに違うラーメン屋の看板が出ていた。テナントが居付かない土地として近所では有名で、だからその一家が来た時もみんな期待はしていなかった。

数年が経ち、どうやらあの店はしばらくやるらしいと悟った近所の住民がこぞって通うようになり、しかしどの家庭のお母さんにも受けは悪かったらしい。次第に友達は行くのを辞めた。萎びたおじさんたちが酒を飲みに行く、なんだか怪しいラーメン屋。町内ではそう位置付けられていた。豚骨ラーメンにたわしが入っていた、ゴキブリが机を這っていたなどの話も聞いた。しかしわたしたち家族はそんな噂を物ともせず通い続けた。やけに空いた駐車場の、しかしドアを開ければいつでもそれなりに人は入っていて、わたしもどこかでこの店だけは大丈夫だろうと思っていた。ちなみに確かに実家はゴキブリの(割と)多い家だった。でもなぜかはもう分からない。

母親の仕事が忙しくて晩ごはんが作れない時、いやそうじゃない時も、我々はよく通い詰めた。一族の人なのかたまに従業員が入れ替わり、それに伴ってよく味が変わる台湾ラーメンが大好きだった。異様に辛い日も、極端に味が薄い日も、どの日の台湾ラーメンも残したことはなかった。特筆して美味しいわけではなく、その辺の国道沿いの似たような店でもきっと食べられる台湾ラーメン。でも進学で故郷を離れた時、母親の味より恋しかったのはあの店の台湾ラーメンだった。

 

緊急事態宣言が明けても開店しないから気にかけてはいたけど、なんの前触れもなくある日解体工事のお知らせがポストに入っていたと父から連絡が来た。我が家のグループLINEに激震が走った。わたしも驚きはしたが、まだ実感がなくてきちんと受け止められなかった。

翌日、通勤の車内でラーメン屋のことを考えた。店に行くまでの夜のアスファルト。緑色の取手に手をかけて重たいドアを開け、4人でいつも座る席から見える道路。冷たいけどベタベタはしていないテーブル、なんとなく居心地の悪い座敷。毎回必ず頼んだのはビールとつまみ2種類がついてくるセット。わたしが飲めるようになってからはつまみが揚げ物ばかりにならないようにみんなでああでもないこうでもないと選んだ。やがて運ばれてくる、氷塊の入ったビール。冷たすぎて味なんか分からなくて、父はいつも氷の分だけビールが少ないと怒っていた。毎回お腹いっぱいになるまで食べても4人で5000円を超えたことがなくて、帰りはコンビニに寄って一人ずつアイスを買った。意識して思い出そうとしたことがなかっただけで、こんなにたくさん覚えていた。気がついたら少し泣いていて、嘘だろと思ったけどやっぱり泣いていた。あの店がなくなるのと同時に、家族4人で夜道を歩いたあの時間ももう二度と来ないのだと、その時はっきり分かった。

裏口をいつも掃除していた朴訥なお父さんとは、最後まで話さなかった。明るく元気なお母さんはついに「五目ラーメン」が言えるようにならなかった。いつも隣町の小学校の体操服を着て、お母さんの制止を振り払って客の卓によく遊びに来ていた息子は高校生になり、立派にホールを回していた。家族や親戚や親しい友人のその次くらいに、わたしたちは隣からあの家族の10年を見ていた。あの家族はどこに行くんだろう。日本でもどこか遠い国でもどこででもいいけど、わたしたちがそうしてもらったように、ちゃんと美味しいものを食べられるのだろうか。わたしたちにとって当たり前にあった店のように、この町もまたあの家族にとって当たり前にあったのだった。田舎の割に流動的なこの町で、移り変わり続ける風景の単なる一部にするには10年は長すぎた。

 

最後にあの店に行ったのはいつだったかもう思い出せない。近所すぎて写真もない。とりあえずストリートビューで店に行ってスクショを撮った。どうせすぐに忘れてしまうけど、忘れたくないと思った気持ちだけは残したかった。

後にはアパートが建つらしい。ますますいろんな人々がこの町に来ては去るのだろう。あの限界集落のような町内では、ラーメン屋の店構えだけではなくそんなものがあったことさえも忘れられていくような気がする。あの一家もどこかで逞しく生きていてくれるといい。またどこかであの台湾ラーメンに会えたらもっといい。

もう二度と食べられなくても、それでいい。

6/16

 

最後に日記を書いたのが1ヶ月前だった。毎日がものすごいスピードで過ぎ去っていくのに自分は何も変わらないことに焦る。この数年、周りと自分を比べていつも泣いているような気がする。

仕事を始めて1年と少し、今朝初めて寝坊をした。起きて時間を把握した瞬間に一気に動悸がして、一応こんな自分でも仕事に遅れたらまずいという意識があることにちょっと驚く。遅刻したら何もかもどうでもよくなるタイプの人間だったけど、なぜか今日は休むという選択肢は無くて、そういう自分に安心する。これで全部嫌になったらどうしようと思っていたけどそんなことはなかった。

普段より1時間少なかったはずだけどやたらと疲れてしまって、コンビニで晩ごはんを買って帰った。帰ってすぐ床で寝てしまって、ご飯も半分くらいしか食べられなかった。

なんでこんなに疲れているんだろう。最近は休日もずっと具合が悪い。せっかく彼氏が遊びにきても、1日中寝て終わってしまうことが珍しくなくなった。どんな環境でも思い通りになったことのない自分の身体をもう捨てたい。もっと元気なわたしに会いたい。最近元気だった日が思い出せない。この重たい身体を引きずって生きていくしかないのかと思うとうんざりする。明日も雨らしい。

5/21

 

雨のベランダに出て煙草を吸う。遠くで踏切の音がして、その反対側では新幹線の轟音が聞こえる。大きい道路をたくさんの車が駆け抜ける音がする。手を伸ばすとぬるい雨が当たって、霧で白んだ空に煙草の煙が消える。振り返れば田舎のワンルームは煌々と明るく、全部自分で稼いだお金で揃えた家具が整然と並んでいる。

Home sweet home!とてつもなく嬉しい。やっぱりわたしはどこへでも行ける。どこへ行っても嫌なことがあった日は食べ物を買い込んで食べきれずに落ち込んで、煙草を吸って、生きていくだろう。どこに住んでもそこが愛しい我が家になるだろう。相変わらず絶望と希望を繰り返して、なんでもない今日を必死で生きるのだろう。

弱まる気配のない雨音を聞くともなしに聞きながら、今日は自分のことを褒められそうな気がした。

 

 

5/20

 

一人暮らしを始めて明日で1週間が経つ。始めてと書いたけど学生時代も4年間は一人暮らしをしていたはずで、でも経験と言えるほど大した生活はしていなかった。どうやって暮らしていたかあまりにも覚えていない。毎日それどころではなかった。あと実は4年間のうち2年くらいは彼氏と住んでいたので、わたしの一人暮らし生活はほぼ同棲生活と言っても過言ではない。どのみちまともな暮らしはしていなかったような気がする。

一人暮らしをしてゴミ捨てをしたり洗い物をしたり洗濯機を回したり、生活の一つ一つをちゃんとやろうとすると頭の上からもう一人の自分が笑っている。どうせ最初しか続かないと諦めてもいる。それでもいい。今はちゃんと生活がしたい。そう思えるだけで大きな大きな一歩だ。また前進できた。

話は変わるけど、乾燥機付き洗濯機は最高です。思い切って買って本当に良かった。乾燥機付き洗濯機に生活のほとんどを支えてもらっている。ありがとう乾燥機付き洗濯機。名前つけようかな。ドラムんにしよう。ありがとうドラムん。ずっと一緒にいようね。

5/9

 

書いたことすら忘れていた、一昨年の年末ごろの日記が出てきた。読み返してみて、あまりの荒れようになぜか少し落ち込んだ。進路のことで迷いに迷って再チャレンジするもうまくいかなかった4ヶ月ほどの日記。最後の言葉はぐちゃぐちゃの字で書き殴った「消えてやる」で終わっていた。我ながらベタすぎる。

そして今自分の中にそういう気持ちがあまりないことに驚いた。2年経っても現状に満足はできていないけど、感情は確実に変わった。そのことに救われる。

ともあれちゃんと前進している。そろそろ行き先を決めてもいいだろう。

5/6

 

過ぎ去った日々を思い出すことがあまりなくなった。最近は遠い将来のことをよく妄想する。現実からはいつでも逃げたくて、その行き先が過去から未来に変わっただけだ。会社なんかいつ辞めたっていい。バイトでもいい。自分の食い扶持が自分で稼げさえすればいいと彼氏と励まし合う。もうきみがいないと生きていけないのは嫌だと言えた。生き延びた先でまた会いたい。

何度も未来を思い出す。まだきみがいる。