子守唄

ねんねんころりよ おころりよ

大人な子ども 3

(これはnoteに載せた記事を加筆・修正したものです。)

 

高校3年生の時、街頭でインタビューを受けた。選挙権が18歳まで引き下げられることを受けて、「競馬」「飲酒」「煙草」の許可年齢も18歳まで引き下げることに賛成かというアンケートだった。一緒にいた3人の友だちはみんな、「すべて20歳になるまで許可されるべきではないと思う」と答えていた。でも私は、少し引っかかりを覚えてしまった。お酒を飲んでみたいって思ったことがあるし、煙草も吸ってみたいと思ったことがある。20歳になるまで禁止されているから買わないだけで、本当はやってみたい。18歳から許可されたら、きっと他の3人も買っていた。その差はなんだろう。私たちとお酒の間にあるのは、法律だけなのだろうか。

18歳と20歳なんてそんなに変わらない。その変わらなさが怖いと思った。自由になるということは、責任も背負うということだ。20歳になったって私は親の援助を受けているだろう。それなのに成人してしまうのだ。もう大人だと、この広い世界から認められてしまうのだ。1人で立つこともできないくせに。護られないのは怖い。護られるために、ルールを守るのだ。

 

いま私は高校生だから、飲酒や煙草に興味があります。やってみたいと思います。でも、大人に「やってもいいよ」と言われたくないんです。だってまだ高校生だから。自分たちが子どもなのは分かっています。だから、大人に守ってほしいんです。未成年のうちは守られたいんです。守られていると思いながら大人になりたいんです。

「18歳でも許可していい」か「20歳になるまで我慢するべき」のどちらかの答えしか想定していなかったであろう若い記者に、必死で訴えた。私はその時どうしてもこの言葉を新聞に書いてほしかった。守られたいと思っているひとりの高校生の意見を大人に読んでほしかった。あいにく帰りのバスの時間が迫っていて、ゆっくり気持ちを説明することができず、私の話をメモ一つ取らずに聞く記者と困った顔の友だちを置き去りにしてその場を離れた。去り際もう一度振り向くと、元通り笑顔で話をする友人たちと、メモを取りつつ頷く記者が見えた。

後日、その日のインタビュー記事が掲載された新聞が配達された。インタビューを受けたことは教師にも家族にも言ったので、みんながその記事を読んだ。普段おとなしくて真面目そうに見える私が、「競馬も飲酒も未成年にも許可されるべき」と答えたことに驚いていた。きみってそういう考えなんだね、ギャンブル興味あるの?結構不良なんだね。といろんな人に笑いながら言われた。私は何も言わなかった。もう何でもいいと思った。必死で訴えた意見が、「よくわからない話」として扱われたことがたまらなく恥ずかしかった。ただ恥ずかしくて仕方がなかった。人に自分の意見を言うことを初めて恥ずかしいと思った。

友だちの意見だけが書かれたその新聞は、記念にとっておこうと言う家族の声を振り切ってすぐに捨てた。私はあと3ヶ月で20歳になる。