子守唄

ねんねんころりよ おころりよ

水底

背を向けて眠る恋人の背中を撫でる。規則的な呼吸に安心する。ふたりとも裸だったけれどタオルケットがあれば充分で、そんなことで夏の足音を聞いている。
一緒に映画のエキストラに出たい。もし別れても、一緒にいた記録を確かに残したい。フィルムカメラでは何回シャッターを切っても撮れなかった。光の粒にはなれなかった私たちのことを、残しておいてくれる何かが欲しい。何枚手紙を書いても、どんな高価な指輪を買っても、やさしい波が攫ってしまう。
いつだったか、アラビア語は砂漠に書きやすいようにあの形になったと聞いたことがある。砂浜にも書けるだろうか。
波が去った後の砂浜に、棒切れを持って立ち尽くす。書き慣れたはずの名前は、アラビア語にすると見知らぬ人のようで、それがすごく悲しかった。慣れない言語は上手く書けなくて、こぼれた涙も海になる。
名前でさえも手紙になる。

 

壊れたイヤホンで音楽を聴く。声がぼやけて、かすれて滲む。水の中で人の声を聞いたことなんか無いのに、水の中だと分かる。やっぱり、と思い知る。どうしたってこの手は届かない。窓の外を優雅に泳ぐ熱帯魚と目が合う。呆れたように口を開き、何に?と喋った。何に手が届かない?何がこんなに欲しい?欲しかったものはもう全部、その部屋の中にあるじゃないか。限定発売のリップも鮮やかなスカートもきらきらと光るネックレスも、もう全部全部持ってるじゃないか。
海はどんどん深くなる。カラフルな熱帯魚は姿を消し、数メートル先もよく見えなくなってしまった。大きい魚の群れが悠々と通り過ぎる。その影を気にも留めずに小さなエビが海底をのたのた歩く。
冷たい水のなかで、魚たちはたしかに生を営む。

恋人が寝返りを打ち、ふと目を開けた。ぼんやりとした目がだんだん開き、私を捉える。起きた?と言い終わらないうちに強く抱きしめられた。こうしてるとさ、ふたりしかいないみたいだね。ずっとそうならいいのにね。

机の上に置きっぱなしの限定発売のリップが滲んだ。足元に脱ぎ捨てたスカートをベッドの下に追いやる。何か喋れば声が震えそうで、首筋にキスを落とした。優しい腕に包まれて、海はこんなにもあたたかい。温度に耐えきれなかった魚たちが次々に死ぬ。熱帯魚もサンゴもエビもヒトデもみんな死ぬ。


その山のような骸の中で、いつまでも裸のまま抱き合っていた。