子守唄

ねんねんころりよ おころりよ

同情するなら 7

(これはnoteに載せた記事を加筆・修正したものです)

 

塾でアルバイトをしていると、いろいろな子に出会う。成績がいい子も悪い子も、勉強が好きな子も嫌いな子も、ほんとうに様々な子がいる。その様々な子たちが、親の意向か本人の意志かは知らないが、塾という同じ空間に集まって、勉強をしている。その目的は大体が大学に行くためで、なぜ大学に行きたいのか問うと、勉強が好きだから、大学を出た方が良い企業に就職できるから、就きたい職業があるからなど、これまた様々な答えが返ってくる。「まだあと◯年も勉強しなきゃいけないのか〜!」とよく生徒はうんざりしたように言うが、その目はちゃんと将来を見ている。

週に一度、県の委託で学習支援をしている。
経済的な問題や家庭のことなど、様々な事情があって塾に行けない中学生に勉強を教える。中学3年生の男の子が二人、中学1年生の男の子と女の子が一人ずつ、そして男性職員と私。六人には少し広すぎる会議室で、毎週一回2時間だけ勉強会をする。私が見るのは英語だ。
中学3年生の二人は結構優秀で、渡したプリントをすらすら解く。もちろん間違えることもあるが、どうしても分からないということは稀で、正しい答えを隣に書いて見せれば「あぁ、そうだった」と納得する。
いっぽう中学1年生の二人は、問題を解く以前にアルファベットを正しく書くこともおぼつかない。もう中学校に入って半年以上経っているはずなのに、単語を一つ書くにも長い時間がかかる。おそらく学校の授業にほとんどついていけてないだろうと思う。

中学3年生の二人が勉強ができること、中学1年生の二人が勉強ができないこと、それに彼らの家庭の事情が関係しているのか、私には分からない。私は彼らの事情を何も知らされていない。ただ『何らかの事情がある子』と紹介されて勉強を教えている。

この学習支援の話を友人にしたら、彼はそんなことやってるんだ、面白そうと言った後つづけて言った。

「でもそれって同情だよね?」

その後彼が何を言ったか、よく覚えていない。

普通中学1年生でアルファベットも書けないと聞けば、勉強をしてこなかった子と認識されると思う。英語教育は小学校で始まるし、確か私がローマ字を習ったのは小学4年生の時だった。仮に中学校に入って初めてアルファベットを習ったとしても、半年もあればすらすらと書けるようになるのが当然だと思う。
でも家庭の事情があると聞いてしまったら、責めることなんてできない。私にはできなかった。だったら仕方ないかと一から教える。何度同じところで間違えても決して腹を立てず、同じことを何度も何度も言って聞かせる。そうするしか方法がないと思った。これは同情だと思う。友人が何気なく言ったように、私は彼らに同情していた。そしてそれに気がつかなかった。

でも仕方ない、確かに同情かもしれない。でもこのちっぽけな私の同情で、日本中にいる中学生のうちたった4人の英語の成績が少し上がって、彼らが少しだけ生きやすくなるなら、それはいけないことなのだろうか。
だって生きていくって、たぶん大変なことだ。彼らにも近い将来、親の手の届かないところで頑張らなければいけない時が来る。そしてその時に家庭の事情は武器にできない。どういう条件であれ、自分の身一つで闘わなければいけない。塾に行っていた子も、行っていなかった子も、行けなかった子も、みんな同じハードルを越えなければならない。彼らだってそうだ。その時に少しでもこの勉強会が役に立つなら、私が必死で教えたことが一つでも頭に残っているなら、それだけでこのプロジェクトに意味はあったじゃないか。こんな私でも誰かの役に立てるとか、やりがいを感じるとか、そんなことは言わないから、どうか、彼らがほんの少しでも生きやすくなるように。見ず知らずの人のことまで願ってる余裕はない、だけどせめて、彼らだけは、どうか安心して生きられるように。どうせ社会は変わってくれない、だったらせめて、少しでもたくさんの道具を持たせられるように。
そう願って、私は今日も電車に乗る。