子守唄

ねんねんころりよ おころりよ

好きな食べ物

チョコミントが好きだった。

その前はジンジャーエールにはまっていた。

今は暇さえあれば素焼きのアーモンドをずっと食べている。いつ過去形になるだろう。

一人暮らしを始めてから、食べたいものを食べたいだけ食べられるようになった。深夜にカップラーメンを食べても、ジュースばかり飲んでいても、うるさく怒る人はいない。親が一生懸命保ってくれていた健康な食生活が崩壊するのに、そう時間はかからなかった。

何か好きなものができるとずっとそれ一つに熱中するたちだった。短絡的で幼稚な思考。少しずつ楽しむということができない。許される限り時間を割いてしまう。あればあるだけ食べてしまう。1人になって初めて分かった。

ジンジャーエールにはまっていたときは、2,3日に1回は2リットルのペットボトルを買っていた。思い返すと気持ち悪いが朝起きて水の代わりに飲むほどで、しかしある日突然飽きてぱたりと飲まなくなった。チョコミントがマイブームだったときは、どこに行ってもチョコミントと名のつくものを血眼になって探した。あれが美味しいと本気で思っていた。しかしそのブームもすぐ終わった。

こうやって生きていくしかないのか、と足元がぐらつくときがある。好きになったら飽きるしかないのか。もういらないと思うまで吸い尽くして、飽きたら終わりなのか。そうやってしか、自分以外の全てを愛せないのか。

隣で寝ている恋人の髪を触る。頰を撫でる。

まだまだ雪は止みそうにない。

備忘録あるいは夢日記

初めて恋人に自分の散文を見せた。その時の備忘録。

出来事ではなくて、感情の。

 

詳細は省くが、先月有志でそれぞれの作品を持ち寄る小規模な展覧会をやった。主催者に個人的に誘われて、それがたまたま大晦日で、なんとなく浮き足立った世間の空気がそんな気持ちにさせたのかもしれないが、新しいことをやってみようと思って参加を決めた。イラストや写真で参加する人が多いらしかったが、私は短編にすると伝えた。自分にはそれしかないと思った。

決まった大きさの模造紙に文字を貼り付けて、写真も数枚貼って、それだけのことなのに完成したのは当日の集合時間1時間前だった。1分でも寝たかったけど、正常な判断能力を失った状態じゃないと、自分の文章を素通りされることに耐えられないかもしれないとも思った。期待はしない方がいい、何においても。

期待はしてないけど、でも出すからには、と教室の一番目立ちそうなところに自分の作品(作品と呼べるほどのクオリティかという疑問はあるが便宜上そう呼ぶ)を貼った。掲示を終えてしまえばすることはもう何もないので、廊下に無造作に置いてあったパイプ椅子に座った。幸か不幸かその教室はガラス張りで、廊下からでも中の様子はよく見えた。

暇に任せて寒い廊下で椅子を軋ませていると、徹夜明けの霞んだ視界にいきなり恋人が入ってきた。突然のことに身体がついていかず、私の作品はここに貼ってあるよと言う時間も、あんまりちゃんと見ないでね、と予防線を張る余裕もなかった。ただその背中から目を離すことができなかった。彼の足が私の作品に近づくたびに、逃げ出したい気持ちがどんどん大きくなってきた。別にそんなにちゃんと見ないだろう、そもそも名前も小さく書いただけだから分からないだろうと言い訳を重ねて、それでもその背中に駆け寄ることはできなかった。端から展示をゆっくり一つずつ見て回り、ついに私の作品の前に立った彼は、私が心のどこかで密かに望んでいたように、長いことその場から動かなかった。

 

驚いた。何にだろう。恋人がそこに立っていた時間の長さにだろうか。ちゃんと私の作品だと気がついてくれた恋人にだろうか。それとも、とうとうこの世界で筆名を脱いだ自分にだろうか。

恋人が自分の作品の前に立った時、そこにいたのは筆名を脱いだ私だった。ずっとインターネットの中で書いてきて、インターネットなら裸を見られても顔は知らないから平気だった。裸どころかもっと汚い、吐瀉物や排泄物を見せつけた時もあった。何を見せてもインターネットの人たちは私の実生活には関わってこないから、全然気にならなかった。筆名と実名をインターネットとリアルで器用に変えて生きてきて、それで心の安定を保っていた。ずっとそうしていくんだと思っていた。でもそのとき彼の目の前にいたのは紛れもなく私そのものだった。彼に服を脱いだ私を見せたことはあったけど、心そのものを見せたことはなかった。彼どころか、他の誰にも、親にすら見せたことがなかった部分だった。

インターネットで生きていくことを潮時だとは思わなかったけど、そろそろこの世界の誰かに筆名を脱いだ自分を見せてもいいかなと思い始めていた。あんなにこの世界に絶望していたのに、また希望を見いだしたくなった。私が生きていく世界はここなのだと、諦め始めたのかもしれない。彼がいま見ている模造紙と後ろの壁の間のわずか数ミリのところに、紛れもなく裸の私がいた。人間の形もしていない、魂だけの私だった。幽体離脱のように、私の魂を見ている恋人を、後ろから見ていた。

展覧会を通して200人は私の作品を見ただろう。この人なら、と心を決めたわけではない。でもその見た人の中に彼がいるということが、大事だと思った。一言も感想はもらわなかった。私からは聞かなかったし、向こうも言わなかった。私の作品だけを目当てに見に来たわけじゃないのは分かっている。でも見てくれて嬉しかった。恋人という肩書きが無くても、たぶん私は彼に見て欲しかった。

 

夢について書いた文章だった。忘れた夢のワンシーンを些細なきっかけで思い出して、忘れて、また思い出す。それを繰り返すうちに、だんだん本当にあったことのような気がしてくる。それと反対に、どんなに嫌なことがあっても夢だと思えば、夢日記にそう書いてしまえば、夢だと思えるだろうか。そんなようなことを書いた。いま彼が狭い教室の隅で私の魂を見ていること、これは夢だと思った。夢日記はしばらくつけていない。でもどこかに書かないと忘れてしまう。忘れて、夢だと思ってしまう。そう考えて、ここに書いた。

 

展覧会は無事終わった。もうすぐ1ヶ月が経つ。

恋人にはまだ見てくれてありがとうと言えていない。

口を開いたら、この長い夢が醒める気がして。

生ぬるい風に頬を撫でられて、春の終わりに気付いた。家に帰ってTシャツを引っ張り出してみた。去年洗濯をしすぎたのかどれもこれもぶかぶかで、着てみたらお兄ちゃんのお下がりをもらった中学生のようになってしまった。とがった肩に、真っ平らな胸。もともと太っている方ではなかったけど、最近さらに痩せた気がする。化粧っ気のないわたしの、素朴なところが好きだよって、あれは本当だったのかな。やっぱり髪がふわふわで、真っ白な肌の、抱きしめたらいい匂いがするような女の子のところに、行ってしまったんじゃないのかな。
なんとなく髪を切りたくなって、失恋したからってわけじゃないけど、と心の中で言い訳をしつつ、(でも美容師に失恋でもしたんですか?と聞かれた)ばっさり切った。そしたら昔空けたピアスがよく見えるようになってしまった。おまけにこれからの季節、半袖になると左手の火傷の跡が見える。ショートパンツを履くと、太ももの古傷が見える。忘れてた。でも、そうだった。
写真を見なくたって、手紙を読み返さなくたって、わたしのこの体が、もう歴史なのだ。笑いあって空けた穴は塞げない。一度付いた傷は消えない。あの傷もこの傷も全部、いつどこで付いたものか言える。忘れても忘れなくても、ここにはただ歴史だけがある。
やがて夏が終わり、秋が終わり、冬が終わり、春が来る。求めた未来はすぐに過去になって歴史に変わり、わたし自身になる。

そうやって、生きていく。

同情するなら 7

(これはnoteに載せた記事を加筆・修正したものです)

 

塾でアルバイトをしていると、いろいろな子に出会う。成績がいい子も悪い子も、勉強が好きな子も嫌いな子も、ほんとうに様々な子がいる。その様々な子たちが、親の意向か本人の意志かは知らないが、塾という同じ空間に集まって、勉強をしている。その目的は大体が大学に行くためで、なぜ大学に行きたいのか問うと、勉強が好きだから、大学を出た方が良い企業に就職できるから、就きたい職業があるからなど、これまた様々な答えが返ってくる。「まだあと◯年も勉強しなきゃいけないのか〜!」とよく生徒はうんざりしたように言うが、その目はちゃんと将来を見ている。

週に一度、県の委託で学習支援をしている。
経済的な問題や家庭のことなど、様々な事情があって塾に行けない中学生に勉強を教える。中学3年生の男の子が二人、中学1年生の男の子と女の子が一人ずつ、そして男性職員と私。六人には少し広すぎる会議室で、毎週一回2時間だけ勉強会をする。私が見るのは英語だ。
中学3年生の二人は結構優秀で、渡したプリントをすらすら解く。もちろん間違えることもあるが、どうしても分からないということは稀で、正しい答えを隣に書いて見せれば「あぁ、そうだった」と納得する。
いっぽう中学1年生の二人は、問題を解く以前にアルファベットを正しく書くこともおぼつかない。もう中学校に入って半年以上経っているはずなのに、単語を一つ書くにも長い時間がかかる。おそらく学校の授業にほとんどついていけてないだろうと思う。

中学3年生の二人が勉強ができること、中学1年生の二人が勉強ができないこと、それに彼らの家庭の事情が関係しているのか、私には分からない。私は彼らの事情を何も知らされていない。ただ『何らかの事情がある子』と紹介されて勉強を教えている。

この学習支援の話を友人にしたら、彼はそんなことやってるんだ、面白そうと言った後つづけて言った。

「でもそれって同情だよね?」

その後彼が何を言ったか、よく覚えていない。

普通中学1年生でアルファベットも書けないと聞けば、勉強をしてこなかった子と認識されると思う。英語教育は小学校で始まるし、確か私がローマ字を習ったのは小学4年生の時だった。仮に中学校に入って初めてアルファベットを習ったとしても、半年もあればすらすらと書けるようになるのが当然だと思う。
でも家庭の事情があると聞いてしまったら、責めることなんてできない。私にはできなかった。だったら仕方ないかと一から教える。何度同じところで間違えても決して腹を立てず、同じことを何度も何度も言って聞かせる。そうするしか方法がないと思った。これは同情だと思う。友人が何気なく言ったように、私は彼らに同情していた。そしてそれに気がつかなかった。

でも仕方ない、確かに同情かもしれない。でもこのちっぽけな私の同情で、日本中にいる中学生のうちたった4人の英語の成績が少し上がって、彼らが少しだけ生きやすくなるなら、それはいけないことなのだろうか。
だって生きていくって、たぶん大変なことだ。彼らにも近い将来、親の手の届かないところで頑張らなければいけない時が来る。そしてその時に家庭の事情は武器にできない。どういう条件であれ、自分の身一つで闘わなければいけない。塾に行っていた子も、行っていなかった子も、行けなかった子も、みんな同じハードルを越えなければならない。彼らだってそうだ。その時に少しでもこの勉強会が役に立つなら、私が必死で教えたことが一つでも頭に残っているなら、それだけでこのプロジェクトに意味はあったじゃないか。こんな私でも誰かの役に立てるとか、やりがいを感じるとか、そんなことは言わないから、どうか、彼らがほんの少しでも生きやすくなるように。見ず知らずの人のことまで願ってる余裕はない、だけどせめて、彼らだけは、どうか安心して生きられるように。どうせ社会は変わってくれない、だったらせめて、少しでもたくさんの道具を持たせられるように。
そう願って、私は今日も電車に乗る。

打ち上げ花火 6

打ち上げ花火を見た。

風のない、晴れた日だった。

人々の熱気を物ともせず、突然始まった。

火の玉が上がって花が開くまでの沈黙は長いように見えて一瞬で、それまでの暗闇のことなど忘れてしまう。花火を見上げる人の横顔はいつになく輝いて、この顔を見下ろせる花火は幸せだろうなと思った。

連続で花火が上がると煙が空を覆って何も見えなくなってしまった。花火は一生懸命上がってるけど、上がってるのは分かるけど、その姿は全然見えなかった。

反対側や上から見たらちゃんと綺麗に見えるのだろうけど、こちら側からは雷のようにしか見えなかった。

 

あぁ、こういうときあるよなと思った。

 

家に帰ってきて、線香花火をやった。飽きないねぇと笑われたけど、手元で光る線香花火のほうが綺麗に見えた。手に入るきらめきのほうが、素敵な気がした。

宅配便 5

宅配便を待っている。

すごく欲しいものだった。すごく欲しかったはずなのに、それが何だったかを忘れてしまった。ただずっと待っている。

 

そんなことばかりの人生だった。

 

いつか誰かが迎えに来てくれるはずだ。一瞬で世界が変わるほどの何かを持ってきてくれるはずだ。なんの根拠もなく、でも心からそう思って生きてきた。

何回か宅配便は来た。その度に私はその時やっていたことを全て放り出して、全速力で玄関に向かった。でもそれは当時の同居人のものだったり、遊びに来ていた友人のものだったり、離れて暮らす妹のものだった。どうして私には何も来ないのだろう。泣きながらサインをして受け取ると、彼らはみんな顔を輝かせて、荷物を大事に抱えて私の部屋から出て行った。誰ひとり、何が入っているのか教えてくれなかった。

 

半ば諦めて、でも完全に諦めることはできなくて、来客のチャイムを聞き逃さないように、今日もひっそり暮らしている。

フィルムケース 4

祖父の車のドアポケットに、朝顔の種が入っていた。

このあいだ帰省した時に久しぶりに祖父の車に乗って、ドアを閉めようとドアポケットの中に指先を入れたら、たくさんの丸い粒に触った。よく見たら朝顔の種だった。なんでこんなところに種があるのか、聞けばすぐ分かるのだが、答えをすぐに聞くのがもったいなくてしばらく指先で弄んでいた。種の輪郭を指でなぞっていると、遠い記憶の蓋がゆっくりと開いた。

 

昔は植物の種といえばフィルムケースだった。植物が好きだった祖父母の家にはいつもたくさんの植物があった。ちゃんと花を間引き、水をやり、枯れたら種を取るのが祖母の仕事で、祖母が取ってきた種をフィルムケースに入れて、セロハンテープに植物の名前を書いてケースに貼るのが祖父の仕事だった。季節ごとに咲く花たちを祖母は丁寧に私に教えてくれた。

 

さらに記憶は蘇る。

 

保育園に預けられていた頃、ずっと父と一緒に登園していた。バスは毎朝迎えに来たが用意が間に合わず、2年間のうち片手で数えるほどしか乗らなかった。父の職場が近かったので、出勤時間に合わせて毎日1時間ほど遅刻しつつ通っていた。とは言え家族の誰も朝のバスに間に合わせようとしていなかったので、私も特に負い目には思っていなかった。

その優雅な登園の時に、父は車を近くの路上に停めて私を保育園に送ってくれたのだけど、その道にはフェンスがあって、そのフェンスに朝顔が巻きついて咲いていた。ある日父が朝顔の実を取って、殻を指で少し剥いて、手のひらに乗せてふっと息を吹きかけた。殻は簡単に飛ばされて、父の手のひらには黒い種だけが残った。やってごらんと言われて、父と同じように殻を少しだけ剥き、ふっと息を吹いた。そうすると私の手にも種だけが残った。それが楽しくて楽しくて、実を見つけては殻を吹き飛ばし、私の服のポケットにはいつも朝顔の種が入っていた。家に帰ってフィルムケースにその日の朝取った種を入れるのが日課だった。こんなのどうするのと母はいつも怒ったけど、父との楽しいひとときを貯めていくようで嬉しかった。

 

 

車のドアが閉まる音で我に返った。車が停まったのに出てこない私を、怪訝な顔をした祖父が窓越しに見ていた。慌てて外に出て、とっさに種を数粒つかんでドアを閉めた。訳を聞く代わりに、こっそり道ばたに種を蒔いた。芽が出ても、出なくても、いいと思った。